PC昔話 第1話 COMPAQ Presario 433

出会いは突然

さて、会社の98NOTEでパソコンデビューを果たした私は、静岡で零細営業所の所長をしながら、音楽活動のために自宅にパソコンを導入することを考え始めました。


そんな折、たぶん1994年のことだったと思います。静岡のTOPOS(当時のダイエーの一業態)の電気製品売り場を何気なく見ていると、聞いたことのない外国製パソコンが無造作に山積みされ87,800円とかで売られていました。けばけばしいカラー印刷が施された外箱を見ると、カラー画面上になにかのプレゼン資料っぽい、かっちょいいグラフが描かれています。売り場の店員さんに「このパソコン、カラーなの?」と訊くと、そうだと言います。即決して当時乗っていたホンダ・ドマーニの後部座席に押し込んで持ち帰りました。


こうして連れて帰ったのが私の私物パソコンの1号機、"COMPAQ Presario 433"でした。

型番から想像がつくように、CPUはインテル486SX/33MHz、メモリ8MB。HDDが200MB、ディスプレイは256色表示。かろうじて800×600の表示が可能である他はWindows3.1が動くほぼ最低限のスペックです。
会社の98NOTEしか知らず、パソコンの最新情報も集めていなかった私は、とりあえず説明書と首っ引きで配線をして、電源を立ち上げてびっくり!「あ、Windowsだわ、これ」当時の私はOSの種類も知らず、NECDOS/Vの微妙な違いなどもまるで無知でした。会社の98NOTEとのあまりのギャップ(相変わらずMS-DOSで、画面もやっと青と白のモノクロから白黒8階調になったくらい)に驚いた私は、全く1からパソコンのお勉強を始めることになりました。

粗にして貧だが劣でない

私の運が良かったのは、Presario 433は世界的に勝ち組だったIBM互換機のスタンダードだったことです。だって、「IBM互換機」っていうのはぶっちゃけ「COMPAQのパソコン」のことだったので、およそ市販のDOS/V機対応の周辺機器はなんの問題もなく動くのです。
Presario 433は一体型ですから、バイヤーズガイド的には拡張性が「?」なんですが、それでも拡張スロットが2つあり、その1つには標準のモデム(若者よ、聞いて驚け2400bpsだ)を内蔵していたものの、1つの空きスロットがありました。
私はとりあえずプレインストールされていたNIFTYマネージャーでパソコン通信を覚え、音楽パソコンに不可欠なCREATIVEのサウンドブラスター(CD-ROMドライブ同梱版)を取り付けました(それが無いと、ビープ音しか鳴らない)。そのころ静岡では地元の家電量販店「すみや」がパソコン売り場を拡大していて、私は毎月のカードの支払いに汲々としつつもPresarioのカスタマイズに熱中しました。

パソコンは精密機械じゃない

また、ある時はわざわざ秋葉原に行って、4万円で増設メモリを買いました。パソコンというのは精密機器と思っていたので、ケースを開けるたびにどきどきし、メモリを指すのもおっかなびっくり優しくやろうとするのですが、そうするとまず認識しません。「ええかー、ええのんかー」と力を入れていくと、ようやくガスッと底づき感があってやっと認識するようになります。
非力なCPUもCPUアクセラレーターなる486DX/66MHz相当のものに換装しました。なんたってCPUといえばパソコンの心臓(脳髄?)です。方向を間違えて、剣山みたいに生えてるピンの1本も曲げてしまえばおしまいです。メモリ以上に緊張して慎重にソケットにはめて、こんなもんだろうと押し込んで再起動…しません。何回か試しましたが状況は変わりません。「これはサポートに電話するしかない」と思っても当時の電話サポートは平日の9時〜5時です。平日の外回りの途中で自宅に寄り、マザーボードを引き出して電話をします。この電話がまた繋がりにくいのですが、奇跡的にサポートが出てくれました。若い女性でした。私の高度なトラブルに対応できるのか、と疑心暗鬼になりながらも藁をもつかむ気持ちで相談しました。
コンパックのプレサリオ433にCPUアクセラレーターを付けたのですが、立ち上がりません。」
「ソケットにはきちんと挿さっていますか」
「向きは合ってますし、挿さってます」
「ふ〜ん。一度、CPUの上から均等に力がかかるように強く押さえてみてもらえませんか?終わった頃こちらから電話します。」
私が見た限りCPUはちゃんと挿さっています。そんな単純なことで解決するとはとても思えませんでしたが、言われたとおりに手のひら全体をCPUに乗せて、じわーっと押さえつけてみました。なんとなく挿さり具合が深くなったような気もします。"Presario"を組み直して電源ボタンを押すと、すんなり起動しました。良かった。大枚はたいたCPUが無駄にならずに済みました。
30分後くらいに先ほどのサポートの女性から`電話がありました。
「どうですか?」
「あ、動きました。どーもどーも」すごい格好悪かったです。
でも、これで私はパソコンというものを理解しました。つまり「パソコンは所詮アメリカ人が作ったものである。日本の精密機械のような繊細なものではない。入らないと思えばもっと力を入れればいいし、意外と壊れないものなんだ」と。このときから私はパソコンが怖くなくなりました。

パソコン読み物とそれからの私

余談ですが、この頃はパソコン啓蒙書がたくさんあって、楽しかったですね。最近は細分化されたマニュアル本が多くなりましたが、この頃はパソコンを使っていかに発想するか、とか個人情報を集積してどう活用するか、つまりはパソコンで何ができるかというテーマの本がたくさんありました。
こうした本は多少内容が古くなっても考え方としてはずっと通用するものなので、すべてのパソコン初心者が読むべきだと思います。特に日本の著名人の日常描写の多いものより、ウィットに富んだ翻訳物に良い本が多かったです。
私のお薦めはこちら。

マーフィーのパソコン入門 (Ascii books)

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デイヴ・バリーの笑えるコンピュータ

デイヴ・バリーの笑えるコンピュータ

さて、その後私は「みゅーじ郎」のWindows版を買って作曲にいそしんだり、NIFTY SEARVEでフォーラムから1MBのBMPファイル(まだJPEGは一般的でなかった)をダウンロードして、1時間かけて開いたら*1 グラフィックの性能を越えていたのか画面がネガポジ反転して固まり、あわてて再起動をかけたりしながら、パソコンのことを覚えていきました。

そして時代はWindows95

やがて1995年になり、世間ではWindows95の話題が一般のニュースでも流れるようになりました。
すでに隔週発売のアスキーの雑誌"EYE・COM(現週刊アスキー)"の愛読者になっていた私は、PresarioにWindows95を導入する算段を進めておりました。とりあえず旧Windows3.1の環境も残したかった私は、2400bpsのモデムをスロットから外し、あいたスロットにSCSIボードを挿し、外付けの1GBのHDDを増設しました。そしてシリアルポートに28800bpsのモデムを外付けしました。
そしてWindows95をインストール。ちゃんと動きました。
私は開設間もないMSNにも加入し、28800bpsのモデムでインターネットの大海原に漕ぎ出したのでありました。


このようにPresario 433はその非力かつ安価な体裁にかかわらず、私に世界標準のDOS/V機の楽しさを段階を踏んで教えてくれました。おかげでバリバリ文系の私も、こと使いこなしにおいては一切コンプレックスを抱くことなくコンピュータに馴染めるようにしてくれたのです。


名機と言わざるを得ません。

*1:ダウンロードだけで考えても、1MB=8×1024×1024×1=8388608bit。モデムが2400bpsですから8388608÷2400=約3495秒と、実効速度が計算通りでも約1時間かかるわけです。これ、初級シスアド試験に出ました。