Palmマシン回顧録総集編その2

総集編その1の続き。
PDAももちろんそうですが、元来こうした個人情報を入れるもの、たとえばパソコンっていうのは、使っているうちに自分の分身みたいになっていきます。それがパソコンの「パソ」たる所以で。自分の脳みその何割かを、目の前のディスプレイに広げているのだなぁ、と自覚して初めてコンピュータが「パソ」コンになる(「君のパソコンのハードディスクを見せなさい。そうすれば、君がどんな人間か言ってみせよう」とセルバンテスも言っている←うそですね)。だから会社から支給されたコンピュータを仕事に使っているだけでは「パソ」コンを使っていることにはならない、と私は思っています。
私は、会社の仕事でも私物のパソコンを使っています。会社のシステム担当からすると困った奴ですが、幸いシステム担当者と個人的に親しいので、セキュリティ面での管理をちゃんとすることを条件に黙認してもらっている(それより上の人たちは、あいつの分だけパソコン買う金が浮いたからいいや、と思ってる。そういう会社なの)。仕事も個人的な情報も、その私物パソコンの中にあるわけだ(もっとも完全に趣味的な部分は自宅のデスクトップが担当している。音楽ファイルとか、やたら肌色の面積の割合が大きい画像とかね)。
PDAとなると、その人間が肌身はなさず持って歩いてる情報とは、とか、それ以前にどんなPDAを使っているか?なんていうのは、パソコンよりも赤裸々度が高い(様な気がする)。更にPDAにこめる自分のスタイル(もっとも現時点ではPDAを持ってること自体、かなり多くの「何か」を他人に読み取らせてしまいますが)なんてことを考え出すともう大変だ。
だからPDAを選ぶってことは「自分探し」に近いと思う、と以前に書いたのはそういうことです(森英二氏は著書の中で「外部脳」と言ってました)。
例えば、パソコンがWindowsなんだからPocketPCを使えばいい、という素朴な割り切りをする人もいるでしょうし、私みたいに紙の手帳の上位互換(紙の手帳の良さを全て含みつつ、PCとのリンクやデータの使い回しを望む)を目指して見果てぬ夢を追いかけるのもいるでしょう。PCを持たず、ワンアンドオンリーの情報端末としてPDAを購入する人も、学生さんなんかにはいるかもしれませんね(ちょっと前のザウルス・ユーザーなんかはそうでしょうね)。PDAに魅せられている人というのは、多かれ少なかれそんな自分の分身を探し続ける傾向にあるんじゃないでしょうか?
ただし、PDAというのは基本的には仕事に使ってなんぼのものであり、PIM機能の充実とスピードが最優先される物と考えます。
(この項続く)