新人類噺家?柳家喬太郎に注目してみる

柳家喬太郎という落語家がいます。
週刊文春で読者川柳の選者をしている人ですが、顔はずっと知らなかった。あまりテレビで見ない人です。
それがたまたま、何週間か前の土曜日に母のマンションで「レッドカーペット」を見た後、地上波がつまらないので衛星放送(BS2かな?)を見ていたら、NHKが落語家何人かを並べて、1分、3分とネタをやらせて面白かったら次のステージに行ける、というほとんど「レッドカーペット」か「イロモネア」のようなことを落語家にやらせる番組を放送していました。
そこに出ていたのが柳家喬太郎です。決められた題材で1分のマクラを作ってしゃべる、というお題で、中身は忘れてしまいましたが彼は与えられた題材を映画の予告編のパロディでやってみせ、予告編特有の「無理矢理いいところをつぎはぎした」感の切り替えのデフォルメとかがなんともマニアックで、「あ、こりゃ我々と同年配に違いない」と思ってヤホーで調べたら(?)「1963年・東京生まれ」と出てきたのでさもありなんと一人納得。大会社の営業部長または地方の支店長風のいたって常識的な風貌で、顔が小さいのに腹が出ているところにも親近感を感じました。


そしてしばらくして地元の本屋で1冊だけ棚に挟まっていたのがこの本。

落語こてんパン

落語こてんパン

ポプラ社ウェブマガジン→http://www.poplarbeech.com/rakugo/index.htmlで連載している古典落語を紹介するエッセイをまとめたものだそうですが、柳家喬太郎本人は新作と古典の両方をやっているのだそうです。この人自身のことは出身のYouTubeの日大チャンネルで30分の動画が見られます(YouTubeには著作権問題不明な落語の動画もあります)。

途中で高座の一部が出てきますが、若い女性を演じる時の柳原可奈子にも通じる描写はとても現代的です。なるほど、日大落研時代は仲間内で天才と言われながらも一度は会社に就職。しかし意を決して退職してプロの噺家になったとのこと。好きなものへの思い入れと自分を過信できない冷静さのバランスが良くも悪くも新人類的です。


上に紹介した本「落語こてんパン」の中にはこんな文章が出てきます。

その"古典の滑稽話いわゆる落語"も、内容によって便宜上、いろいろなタイプに分けられる。いわく"廓話"。"侍の話"。"酔っ払いの話""お店物""長屋物""与太郎噺""旅の噺"等、等。噺の構成から、楽屋うちでは"オウム返し""言い立て物""ワイワイガヤガヤ"等と分けることもある。

これは(書いてある通り)彼のオリジナルの分類というわけではなく、楽屋での落語家どうしの会話の中に出ていることなのだろうし、あるいは大学の落語「研究」会でもそういう分類がされてきたのかもしれない。そんな専門家やマニアだけが知っていれば良いようなことを、あえて一般大衆向けの文章で解説するところが新人類だなあと思うのです。戦争の記憶を持つ親に育てられ、社会に出ては熱血と闘争の団塊世代に使われてそのいい加減さや暑苦しさに一定の理解はしつつ、俺はああはならないなれないと思う批評眼と、その裏の優柔不断さを併せ持ったまま中年になったわけです。そんな我々がやってきたことは、上の世代に対して「あなたがやっていることはこうですよね。理屈はこうですよね。まだこれをやりますか、それとも理屈に合わせて変えますか?」あるいは「会社や業界での常識はこうなってますけど一般社会には通じませんけど、どうしますか?」というのを1個1個確認するようなことをやってきたような気がします。
その結果、無茶をすることもなくなったが、10のものは10、3のものは3、といろんなものの価値や序列を固定化してしまったかなあという気がしますけど(この辺はとても難しい話になるので今日はうまく書けませんが)。


「のたれ死んでも良い」と覚悟を決めてプロの落語の世界に飛び込んだ彼には、新人類なんてものを代表するつもりなど毛頭無いかもしれないが、古典芸能の世界に生きる同世代人として、今後もちょっと注意して見て行こうと思いました。