放蕩息子の帰還

水曜から金曜日までの予定で青森に出かけたはずが、どこをほっつき歩いていたのか日曜の夜に帰って来た、というのが私です。まさかこんな長旅になるとは…(^_^;)

もちろん理由は「東日本大震災」に巻き込まれたからです。

実はその前触れとして、9日の往路でデビュー間もない「はやぶさ」が新花巻駅手前で突然照明が切れて緊急停止しました。9日の震度6かなんかの地震でした。もうみんな忘れているかもしれませんが。
その時は20分ほどで復旧し、「驚いたけど、いい経験になったわ」くらいのつもりでその後の青森での日程をこなし、運命の11日金曜日、夕方までに東京に戻ろうと、新青森駅13時42分(あ、今思うと字面が不吉!)発の「はやて28号」に乗りました。

2時半過ぎ、盛岡駅をすぎてうつらうつらとしていた私は、突然の大きな振動で起こされ、覚醒した頃にはもう列車は停まっていました。車内は非常灯だけが点灯した状態。でも、その時点では車内放送もあり、車掌さんが「情報によると宮城県栗駒付近で震度7地震があり、停電により停車しています(大意)」しかしその後はまったく案内がないまま日没。

「これは長期化する」と思った私は、同行していた同僚を席に残して、1両後ろの通路でまだ商品をわずかに持っていた車内販売員の女性から「盛岡銘菓・かもめの玉子」とウイスキーの水割りを購入して、同僚に「これでしばらく生きて行くぞw」と話していました。

やがて車掌さんが、各車両ごとに「今夜はこのまま列車に泊まっていただくことになります。飲み物食料等は手配しましたが、なにぶん同じ状況の列車がほかにもたくさんあるので、いつ届くかわかりません。空調も効きませんので、窓のカーテンを閉めて熱を逃がさないようにしてください」と説明しました。

やがて、外気の低下に伴い、車内は寒くなりました。また、自動ドアもトイレも動作しなくなった車内には流せないトイレからの悪臭がこもり始めました。
深夜になってJRが派遣してくれた救助の人がペットボトルのお茶(残念ながら室温)、使い捨てカイロを全員に配布してくれました。また、簡易トイレも持ち込んで、そのメンテナンスを乗務員と手分けしてやってくれるようになりました。毛布も持ってきてくれましたが「全員分は無いので年配の方優先で」とのことだったので、私は毛布はもらわずにコートをひざ掛けにしてノートパソコンの省電力設定のイメージで寝るでもなく起きているでもなく、という状態を維持。
そしてときおりTwitterFacebook、携帯メールで自分の境遇について発信しておりました。携帯発信は3回に1度つながるかどうかでしたが、不思議とSNSとメール発信はできました(しかしメールは実際のやりとりにはかなり遅延がありました)。また、不思議と着信はかなりの確率で通じたように思います。


夕方・夜中・朝と3個の「かもめの玉子」を食べ終わった後、我々は救助されてバスで盛岡駅西口・盛岡市民文化ホールに設営された避難所に搬送されました。

市民文化ホールの避難所に入れてもらったものの、なにせ東北全域が停電中。ビル内は非常電源による僅かな照明のみ。ただし、となりのビルに行けばトイレは使えるのが幸いでした。我が唯一無二の携帯電話であるiPhoneも、この時点ですでにエネループ充電器による継ぎ足しもやりきって、残りは15%前後という心細さでした。
しかし、幸いなことに夕方になって停電が一部解消し、照明が明るくなりコンセントから携帯の充電ができるようになりました。どこからか5穴、6穴のテーブルタップが調達され(ハードなモバイラーの私物も提供された模様)、数カ所で継ぎ足し充電をしながら残量50%くらいまで回復したところで、ようやく安心できました。


翌朝(13日)仕立てられた代替輸送バスで山形県・酒田~(特急いなほ)~新潟~(上越新幹線)~東京というルートで私はようやく自宅に戻ることができました。

私はこのブログで、PalmiPhoneの話をもっぱら下手の横好き的スタンスで書いてきましたが、次回はちょっとこの時の経験を元に、いわゆるひとつの「ライフハック」的な話を書いてみたいと思います。(つづく)