キャッチャー・イン・ザ・ライ

昨日だったか、サリンジャーの訃報がネットのニュースで流れていて、そういえば「ライ麦畑でつかまえて」を読もう読もうと思っていてとうとう四十半ばを過ぎた今まで読んでいなかったことを思い出した。いつだったか、書店で買うところまでは行ったのだけれど、それでも読まずにいて、どこにしまったか忘れたこともあったなあ。
だから今まで、例えばビチカート・ファイヴの歌で「ホールデン・コールフィールドみたいとか♪」なんて聴いてても本当の意味は知らずにいたわけ。


そして昨日、作者の訃報に接して「これが最後のお導きかも」と思って、会社の帰りに丸善に寄って、ジャック・アタリと一緒にカード払いで買ってきた。


サリンジャーというと、条件反射的に庄司薫の話になるんだけれど、庄司薫は好きで読んでいて、例の四部作は何度も読み返した愛読書だ。話の合う本好きな女の子にはよく薦めてた。
そういえば僕は音楽なんかでもそうで、オフコースとかチューリップとか聴いていても、「元ネタ」のPPMビートルズなどの熱心なリスナーではない。なぜかというとやっぱり、英語だと歌詞がわかんないからで、洋楽はお勉強のために無理して聴く感じになる。英語がわかれば、あっちのアーティストは日本の歌手に比べるとずっと滑舌よく歌っているし、歌詞も面白そうなんだけど、歌詞カードや湯川れい子の訳詞なんかをいちいち読みながらだと娯楽にならないじゃない?


そういえば欧米文学もあまり読まない。一部のミステリとか「老人と海」なんかの超メジャーなやつはかじったけれども。翻訳されたものを読むのだから、洋楽の歌詞がわからないこととは次元が違うのだけど、致命的なのは「カタカナの名前がよく覚えられない」ってこと。犯人探し系のミステリだと、途中でどうでも良くなっちゃうことが多い。


さて、そんなわけで庄司薫を先に読んじゃった老けた少年として「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んだ。「ライ麦畑でつかまえて」は昔から野崎孝訳が売られていて、以前に僕が積ん読を通り越してどこかにやっちゃったのもそれだったけれど、昨日買ってきたのは21世紀になってから村上春樹の訳で発売されたもの。

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)


確かに庄司薫と似ているところは(順序が逆だけど)多い。饒舌体の文章や、電話のくだり(主人公がガールフレンドに電話すると親が出てきて難儀する。庄司薫は世の中の電話はみんなママの膝の上に乗ってるのではないかと嘆いてみせた)、クセのある学友の描写、幼い女の子との会話。また、思春期における自分でも解決できない矛盾を見つめる目等…


しかしその語り手である主人公はなぜか対照的。
ホールデンは学校を次々と退学させられる問題児で、知性は感じさせるものの情緒不安定で、5教科のうち4教科で落第点を取るような劣等生でもある。一方、我らが薫クンは日比谷高校の優等生で、近所の人からは東大に行ってエリート官僚になると思われており、本人もあえてそれに逆らったりしない。ピアノを弾き、テニスをやり、軽自動車を運転して女の子とドライブもする、昭和の二枚目の系譜。
どちらが良い悪いではなく、そんな主人公の姿の違いにアメリカと日本の違いがあって、どちらも感動を与える作品として存在する、ということなんだなあ。


思いつきついでに書いちゃうと、薫クンの優等生ぶりというのは、ドラッグもロシアンルーレットもやらない、日本人ロックミュージシャンのたたずまいに似てるかも。

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)

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