ハルマゲドンを演出した精神

TVのニュースでもやっていましたが、ネットだったらたとえばここ。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090320-OYT1T00679.htm?from=navr
地下鉄サリン事件から今日で14年、だそうです。私の職場近くにも日比谷線は走っていて、特に日比谷〜八丁堀間はしょっちゅう使います。当時私は東京勤務ではなかったので純粋にTVの中の出来事として見ていましたが、ちょっと時間がずれていれば同僚にも被害が及んだかもしれません。


これといって本で読んだりしたわけではありませんが、一般マスコミの範囲で得た知識によると、これは例の宗教団体による「ハルマゲドン」の実現の一環だったとのこと。本来、人を救おう、自分が救われようという目的である宗教活動がなぜテロを起こすのか?私はこれを教祖の神経症的体質から来ていると考えます。


私はよくここにも冗談ぽく「強迫神経症で…」という話を書いていますが、本人は結構苦しいものです。詳しくは「家庭の医学」ぽい本や、小説なら北杜夫の「奇病連盟」なんかを読むと良いです。私はこの本を中学時代に友人からもらって読みました。「あ、俺のことじゃん」と思ったし、その後ちょっと仲の良かった女子に教えてやったら読後の感想が「主人公がekkeくんに似てる気がする」と云われた。鋭い!

奇病連盟 (新潮文庫 き 4-12)

奇病連盟 (新潮文庫 き 4-12)

強迫神経症とは簡単に云うと、朝出かける時に「ストーブを消したか」とか「水道が出しっ放しじゃないか」とか「鍵をかけたか」等が気になって、駅の前まで行ってから確かめに帰る(しかも一度確かめても同じ不安が繰り返すので駅と自宅を何往復もする)とかそういう症状。杞憂という言葉がありますが、あれは昔中国にいた杞さんが「いつか天の星が落ちてくるんじゃないか」と気に病んでいた、という故事からくるもので、たぶん杞さんも強迫神経症だったんだと思う(今、調べたら「杞」は国の名前なんだって。またネットにウソを発信してしまった)。
例を見ても分かるように、当人が気にしている内容は「バカバカしい」ことで、本人も「バカバカしい」と自覚しているのに、どうしてもそれが気になって仕方がなく不安でたまらなくなるのが特徴です。私は幼稚園の頃からこの兆候が出ておりました(医者には行ったことが無いけどね)。
しかも質が悪いことに、長じるに連れて日々の「鍵かけたか?宿題やったか?」みたいにその日が終れば結果が分かる、分かりやすい不安ではなく、本人の知性に合わせて思いつく限りのややこしくて確かめ用の無い不安を思いついてしまうという風にレベルアップしてくるのが鬱陶しいところで、私も相当こじれています。


こうした不安の根本はなんなのかと調子が良い時に自分に問いかけてみると、おそらく行き着く先は「死ぬのが怖い」「社会的に抹殺されるのが怖い」という人間の存在の根源にかかわる問題です。多くの健康な人がそれなりに「気にしたってしょうがない」とふっ切って生きている、考えてもしょうがない問題をくどくどといつまでも考え込むことから来るものと思われます(哲学者か宗教家になればいいのにね)。


こういうことをくどくど考えるのはどういう人かというと、まあ脳内の物質のバランスとか計測可能な特徴が多分あるんだろうけれど、生育史としては小さい時に変に頭の回転が早くて、小さいなりの全能感みたいなものを経験したようなタイプに多いのではなかろうか、と思います。
最近、ダイアモンド☆ユカイがどこかで「小学校2年まではIQが高くて、なんでも一度で頭に入った」と語っていましたが、私も小学校3年生までは神童だったので、よーく分かります。その後、勉強にしろ運動にしろそれなりの努力をしないと結果が出なくなってくると、「あれあれ、そんなはずじゃあ…」と思いながら平均点の人間になっていくんですが、その辺の変化が自分の感情レベルで納得していないと、この世の中が生きにくい、この世の中はウソだ…と妄想が始まるのだと思います。こういう妄想を抱えて生きて行くことは、常駐ソフトをたくさん立ち上げているパソコンと同じで、いくら速いCPUと大容量メモリを積んでもOUTPUTに時間がかかり、人並のことをやろうとするととても疲れます。


さて、そこでかの宗教団体の(元)教祖様ですが、彼の精神の中に起きていたこともこれに似ているのではないかと想像しています。彼の場合はそれに自分の外見に対するコンプレックスも加わっていたでしょう。傲慢なほどの自意識と同時に自分に対する嫌悪の両方が肥大化して、おそらく彼自身が相当に「救い」を求めていたんじゃないか?
そして既存の宗教やスピリチュアルなものを試してみたけれど自分の不安・不満は解消されないし、なにより彼は自分以外の何者かに心酔するような心は持ち合わせていなかったんだと思います。


そのあたりで彼はおそらく一度大きな自我の崩壊みたいなものを経験し、その崩壊を自分なりに合理化したとき、彼は教祖になったのではないかと思います。だから、かの団体の刊行物には相当美化した教祖様が描かれましたし、おそらく彼は自分の声にだけは自信があったのでマイクを持ったパフォーマンスが好きだったんだと思う。しかし、彼の自意識はマイナーな宗教の主宰レベルでは満足せず、日本中の人気者になりたかったんだがどうもその道は遠そうである…。こんな世間はウソだ、本来私は全ての人から必要とされ尊敬されるはずなのに…。だったら私を必要とし尊敬する(崇拝する)世の中にしてしまおう、というのがテロの動機だったんだと思います。


一方、かの団体にそんな教祖に心酔して行動をともにした高学歴者が多く存在したのは意外です。私は教祖の心情は想像できますが、ついて行った彼らの心情はよく分かりません。それまであまりにも合理的に生き、しっかり勉強して試験で良い点をとって順調に進路を進んでいたものだから、異質な人間である教祖に会ったことで生まれて初めての「不安」を喚起されたのか?それとも小さい団体を能力の高い自分の力で牛耳ることに魅力を感じたのか?私は効率の良い優等生ではなかったので、彼らの気持ちはよく分からないのです。