「負け犬」は新人類ですか?

今週は代休を取ったり、電車での長い移動があったりしたので本がたくさん読めました。


まずメジャーなところで酒井順子「負け犬の遠吠え」です。文庫本になっていたんですね。

負け犬の遠吠え (講談社文庫)

負け犬の遠吠え (講談社文庫)

数年前にブームになった、「30代・未婚・子無し」の女性を「負け犬」と規定した上で、その「負け犬」についての考察。
巻末に付いている林真理子の浅はかな解説によると、「負け犬」と言えるのは、出版業界のキャリアウーマンを典型とした、それなりにアッパーな職業婦人であることが条件なのだそうですが、私はもっと普遍的で潰しのきく見立てだと思います。
そして「負け犬」を負け犬にさせている甲斐性のない「オスの負け犬」であるところの私にも興味深い著書でありました。


著者が「負け犬」と規定する存在の背景が、出版時の2003年現在だとして「負け犬」の年代を比定すると、1963〜1973年生まれと考えられますが、実際には著者の年齢±2〜3歳くらいの女性について書いているというのが本当でしょう。自らを「負け犬」とする著者は1966年生まれです(おお、丙午ですね)。
年代だけで言えば、今、この土曜の朝の私の家で、野球の練習に行く小学校6年生の長男のお弁当を作っているのが酒井順子であってもなんの不思議もないわけです。


なぜ僕は、そして「負け犬」たちはその生活を選んでいないんでしょうか?


もう1冊読みました。
大塚英志「『おたく』の精神史 一九八〇年代論」

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

「おたく」の精神史 一九八〇年代論

宮崎勤裁判にも関わった著者が、

八〇年代の全てを「おたく」の語に集約できるなどとは考えないが、しかし八〇年代の「おたく」文化を検証することで見えてくる「現在」があり、それはアニメやコミックの「現在」ではなく、新世紀の日本社会の「現在」である、とぼくは感じる。(中略)
だから本書は「現在」の読者に届けられる。

という前書きから語り始める80年代。「若者たちの神々」、「YOU」、中森明夫岡田有希子ロリコンまんが、岡崎京子黒木香宮崎勤昭和天皇崩御…。
新人類という言葉の本当の定義はよく分かりませんが、自分自身の中にそう言われてしまう他の年代との違和感は自覚しているから、答えは自分の中にあるといつも思います。
著者は1958年生まれで、一般人における「新人類」より若干上の世代だと思いますが、出版業界というトレンドの先端にいた人なので、タイムラグも計算するとよく似た文化に触れていたんだろうという部分で信用でき、80年代というものの真実がよく書けていると思いました。


さて、この2冊は同じ世代の男女を、それぞれの当事者が書いているものとして併せて読むと大変面白いことに気がつきます。「新人類」に性別があるのかはよく知りませんが、犯罪者を含めてそういわれたのは基本的に男子だと思うので、「オスの負け犬≒新人類のなれの果て」という図式は成立しそうです。


一方、「負け犬の遠吠え」に以下のようなくだりがあります。「負け犬と大人」という小見出しのついた文章ですが、その中に

やがて私は、三十五歳を迎えました。その途端、私はハタと、もう大人になることから逃れられないということを理解しました。(中略)
つまり私が三十五歳でなった「大人」というのは、精神的に成熟していった結果として到達した地点ではなく、年齢によって自動的に与えられた役割、のようなもの。あらゆる手を尽くしてそこまでは逃げまくっていたけれど、とうとう追いつかれたか、という感覚です。

この感覚は「新人類」でしょう?

私は32歳のときに作った曲で、「僕は知らないうちに大人と呼ばれてる」という歌詞を書きました。自らの精神的成熟の実感がないまま、実力よりも社内事情で「係長」とか「所長」とか呼ばれている自分が不思議だった上に、どう考えても自分が新入社員だった頃の30代の上司と自分が似てこない(ちゃんとオッサンになっていない)という社会人としての居心地の悪さを感じていた頃でした。


「新人類」にも「負け犬」にも共通しているのは、「なにもそんなに急いで大人にならなくても良いじゃないか?」という甘えでしょう。そして、バブルを知らない年下の世代の方が早く大人になっている、という感覚。どうも、形而下のことではちゃんと悩めない、というのが両者の致命的な弱点(で、ついつい変な宗教にはまったり)であり、それはおそらく日本の有史以来、もっとものほほんと育った世代として我々がいるのではないか?という変な優越感でもあるのでわ?