小椋佳 未熟の晩鐘

昨日と同じような話で恐縮です。
また、実家でBSを見ていたら、今日は小椋佳のコンサート(なんと生中継だった)をやっていましたね。
タイトルが「未熟の晩鐘」。最近出たアルバムと同じタイトルなのだそうで…。

未熟の晩鐘

未熟の晩鐘


今日の放送の中でも挿入されていましたが、私は30年前に小椋佳が最初に行ったコンサートの放送をNHKで見ていました。大手都市銀行の行員だったこともあり、小椋佳はそれまではレコードは出すがマスコミに出ない、コンサートもしない覆面歌手のような人でした。
それが、いろんな事情の中で「1回だけ」行う、としたコンサートで、NHKはその準備段階からカメラを入れてメイキングも含めた番組を放送したんですが、それを見ていたのです。私は12歳でした。


その後、彼はたしか50歳前後で銀行を退職して、プロの音楽家として現在に至るんですが、その姿勢はずっと一種のアマチュアリズムに支えられているようです。
つまり、

  • 東大出たのに流行歌なんか作ってスイマセン
  • 歌い手なのにこんな容姿でスイマセン
  • 本業じゃないのにこんなに売れちゃってスイマセン

といった、含羞を感じさせるんですね。


このコンサート及びアルバムのタイトル「未熟の晩鐘」も、そのココロは「歳はとりましたが、相変わらずこんなもんで…」ということなんだと思うんですね。腹の内は分かりませんが、そういうポーズをとりたい人なんでしょう。


30年前の放送の中で、エリート銀行員がなぜ歌を作るのか、という問いに対して答えた中で、彼はたしかこんなことを言っていました。
「子どもの頃から流行歌が好きで唄うのが好きだったが、どうも最近の(筆者註:当時の最近ですよ)流行歌の中に、明らかに聞き手をバカにしているような歌が多いような気がして、その不満から自分で歌を作るようになった」というような…。
その彼にとっての不満な流行歌とは、主に演歌を中心とした流行歌のことだったようですが、その小椋佳がその後も歌を作り続けて来たということは、その不満が解消されていないからなんじゃないかと私は思っています。


今日の放送の中で歌われた曲は、今たくさん売れる曲ではないように聞こえましたが、とにかく歌詞が濃い。
中年以上で、それなりに若い頃にいろいろと物事を考えて来た人に歌詞の中身で響く歌があまりに少ない、というのが今の小椋佳の不満なんだと私は受けとめました。新アルバムを通して聴いてみて、「ジジイの説教みたいな歌ばっかりになっちゃって」というような話をしていましたが、壮年の心を代弁する歌がないから自分で作ったんだ、ということなんだと思います。


私も聴いてるだけじゃいかんなあ、とちょっと考えました。


さて、ここからは超余談ですが、フォークとニューミュージックはどこが違うか、厳密な線引きはないわけですが、当時の消費者の中心的年代だった私の考えでは、

  • フォーク
    • TVには出ない(またはTVに出せない)
    • ギタ−1本の弾き語りまたはそれに準ずる小編成で、かつ演奏テクニックは二の次
    • とにかく歌詞(メッセージ)が命であり、メロディは二の次
  • ニューミュージック
    • TV出演は条件次第では吝かでない
    • 外国の最新サウンドの影響を受け、5人編成以上のバンド形態をとる
    • まれに諸般の事情からギターのみということもあるが、その場合は演奏がいわゆるフォークより高度である。
    • 歌詞に政治的メッセージをこめない(メッセージはお洒落じゃないから)
    • 歌謡ポップスとの違いは自作自演であること。音楽性では明確に分けられない

という受けとめ方をしています。
で、その最初のランナーが、井上陽水ユーミン小椋佳小坂明子というところだったように思います。