決して悪口というわけではなく

さて、今日は仕事納めでした。今年もいよいよおしまいです。
まったく関係ありませんが、昨夜会社の帰りに本屋によって、夏目房之介「マンガは今どうなっておるのか」を買ってきました。

マンガは今どうなっておるのか?

マンガは今どうなっておるのか?

最近のマンガをあまり読んでないので、全部を「ふんふん」という感じで読んでるわけではないのですが、「原理的な話」と副題の付いた第4章が面白い。
特に、「マンガの『うまいヘタ』評価基準の厄介な問題」と題された14ページにわたる1本が面白かったです。
これは、BSマンガ夜話いしかわじゅんがよくこの漫画家はヘタだ、とかずばずば言っていることの根拠を夏目房之介が解説している内容なんですが、ここで言われていることは、私がこの間このブログで書いてきた音楽に関する話とよく似ていて面白いのです。
どういうことかというと、この文章全体の結論はもっと深いところまで行くんですが、とりあえずいしかわじゅんの言っている「うまいヘタ」がどういう根拠から言われているのかを解説している部分が面白いのです。
要約すると

  • マンガのうまさと絵のうまさは違う
  • 絵がうまくても演出がヘタな人がいる
  • 絵がヘタでも演出や構成がうまい人がいる
  • 絵も演出もヘタだがそれが味になっている人もいる
  • ファインアートの絵画としての評価では欧米のマンガのほうが優れていることが多い
  • だが、絵画としての評価とマンガとしてのうまいヘタ、は別である
  • マンガのうまいヘタとその面白さはまた違う

などの話が語られていて、この辺は「BSマンガ夜話」を見ている人には良く分かる論旨だと思います。
特に私が「そうそう」と思ったのは

作家主義的な視点に立つと、商業的な大衆表現が宿命的にもつ類型性やマンネリズムには相対的に点が辛くなる

という一文で、これはいしかわじゅんのマンガ批評に対するひとつの解説として(もちろん、いしかわは違った視点も持っているとした上でですが)書いているものです。
私の音楽に対する姿勢がまさにこんな感じです。数えてみると私はこのブログ開設以来31回音楽に関する話を書いています。
音楽の素人で、単なる会社員でいる私が、ときどきムキになって宇多田ヒカルを応援したり、これは○○に似ているとか書いてしまうのは、私が音楽を作家主義的に見ているからなんでしょう。
世に出したこともなく、レベルも低いものですが私も学生時代から30代にかけてシーケンサーソフトとギターでオケを作っては数にして数十のオリジナル曲を作ってきました(ここ数年は休眠してます)。そうすると、曲を作るに当たっての壁とか解決策とか自分の理想と結果として出てくるもののギャップとかいろいろ分かってくるわけです。また、自分は歌がうまいと思って生きてきた(最近は酒とタバコで相当怪しくなっていますが)ので、歌唱についても結構譲れない価値観というものがあります。
するとどうしても、ポピュラーミュージックのレベルではいろいろと突っ込みたい部分が出てきてしまいます。
あ、これは楽して作ってる、とかこれは前にやったあれと同じだ、とかこれは○○を下敷きにしてるな、とか…。
このブログでは嫌いな音楽を名指しでけなすというのは1回しか書いてないと思うんですが、ホントは「BSマンガ夜話」のいしかわじゅんみたいに
「○○はこんなに歌がうまいのに、曲作りになると全然引き出しがないんだよ」とか、
「古臭くて嫌いなんだよ。つまんねーなと思いながら聴いてたんだよ。だって誰かのやったことをなぞってるだけで、自分で作り出したものがないんだもの」
とか書きたくなることが多いです。そういう音楽は今たくさんありますから。ま、素人には製作現場の内情まで分からないんで、つっこめないんですけど。
また、マンガがそうであるように、歌の巧拙、曲作りの巧拙と聴いて面白い、感動するというのはまた別です。だから部分を分析して語ると悪口になってしまっても「でも、俺は好きなんだよ。全部買ってるもの」ということもあります。
というわけで、これからも発作的にヒット曲の悪口っぽいことを書くかもしれませんが、作家的良心から書かずにおれなかったんだということで、勘弁してくださいね、という話です。
ちなみに今よくCMとかでかかってる某楽曲について一言。「いい曲だね。歌うまいね。というCDなんて、音楽で飯を食おうと思うくらいの才能があれば誰でも作れるよ」