聖書をいただいた話
以前にもちらと書いたことがある、中学時代の恩師から再三のお誘いがあったので、指定された場所でお会いしたところ、キリスト教の集会に同席することに…。
四十を過ぎても独身で、元登校拒否児童で今もこっそり神経症に悩んでいる私、なんていうのはいつまでたっても心配で、こういう人間には信仰が必要だと思ってくれたのかもしれません。
おそらく私はその根っこのところで自分または人間の力を信じていて、合理的に考えることができれば謎はなんでも解き明かされ、望んだことはいつかは実現できるという考え方をしているのだと自己分析しています(その半面でなにかのバランスを失っているので神経症も持っているのですが)。おそらく日本人の多くはそう思っているので、普段宗教というものをあまり必要としないのでしょう。
日本という風土が元々温暖で、狩猟採集生活と原始的な農業をしていれば、国全体としてはなんとかなった(部分的に飢饉に苦しめらる経験はしたにせよ)こととか、四方を海に囲まれて、理不尽な侵略の犠牲になった経験が無いことなどから「贅沢言わなければなんとかなる」という気楽さがあるんだろうと思います。日本人が宗教を必要とする場面は「死ぬのが怖いのをなんとかしたい」と「怨霊に祟られないようにしたい(身内が死んだ時も含めて)」の2つくらいではないか?
普段の生活においては「八百万の神」を漠然と意識して、初詣に行ったり、祭でお神輿を担いだりして、あとは「お米を粗末にしない」とか「他人に迷惑をかけない」くらいに気をつけて生きているのがちょうど良い*1。
だから、大真面目に唯一絶対の神を信仰する一神教の信者のテンションには、なかなか着いて行けないところがあります。一方、信仰になにかを求めるのであれば、そこそこにつき合うというスタンスは考えにくく、その点では新興宗教も含め、なにかを信仰した時に自分もそうなる可能性は高い。ただし、その際気になるのは、宗教に共通する「現世がつらくても、神を感じることで幸福になる」精神のメカニズムを、権力者や為政者に利用された場合、現状肯定の保守勢力に組み込まれてしまうことです。それを利用して私腹を肥やしている教祖様だっているでしょうし。また、唯一の神を信じることで、その解釈の違いによる派閥争いや、他宗教を認めず(そりゃそうだ)戦争になったりすることが、「八百万」な私から見ると、「そこまでしなくても」と思ってしまいます。
そんなわけで、とりあえず聖書を1冊プレゼントされて帰ってきました。読み方のガイドもいただいたので、西洋文化を学ぶための教養として、読むことにします。音楽の勉強にもなりそうだしね。
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*1:ただし、昨今はその程度のルールも共有できていないことで、あまりにも精神的支柱がなくなって、自分の欲望と社会のギャップに対処することができなくなっている例が増えているように思うけれども、その話はまたいつか改めて…。