父を送ってきました

18日に父が亡くなって、今日火葬が終わりました。

直接の原因は、脚部の血行障害による壊疽からと思われる敗血症です。脚の切断という話もあったのですが、もはや手術には耐えられないでしょうというお医者さまの判断で、抗生物質でごまかしながら延命していたような状態でした。私が最後に会えたのは17日で、そのときにもずいぶん辛そうだったので、会社で「近々ご迷惑をかけるかも」と話していた矢先に「急変したので至急来てください」と連絡を貰い、病院に向かったんですが、到着する前に2度目の連絡が入りました。


葬儀屋さんに遺影用の写真を持って行くことになって、アルバムを探していました。結局、私の七五三のときに明治神宮写真屋さんに撮ってもらったやつにしました。もっと若いころは、前にも書きましたが「ゴジラの逆襲」の頃の小泉博みたいな感じで格好良かったので、母とアルバムを見ながら、選ぶのが楽しかった。


父は1931年に新潟県村上市に生まれ、地元の県立高校を卒業後、謎の空白期(一説には地元の郵便局員になったが職場で喧嘩して辞めたとか…)の後、自衛隊の前身の保安隊に入り3年ほど勤務。北海道に転勤を命ぜられ、「寒いところは嫌だ」と退官して東京の電機メーカーに就職しました。

自衛官時代に新発田駐屯地近くで知り合った母が東京まで追いかけて行き、私が生まれましたが、なかなか踏ん切りがつかなかったのか、両親が正式に結婚届けを出したのは私が生まれる1ヶ月前でした(数年前に戸籍謄本かなんかを見て気づいた。おいおいお前らなにやってんだよ!)。

その後は電機メーカーで30年近く勤務していましたが、この間、仕事か遊びか不明ですが、夕食の時間に帰ってくることはほとんどない上に、素面で帰ってきたことはほとんどありません。おまけに私が大学進学する直前、50歳にして上司と衝突し、その日のうちに会社を辞めてきました。短気で我儘で弱虫でプライドが高い人でした。

退職後は自分でやりたい仕事ができずに1年間自宅で酒浸りになった後、諦めたように警備会社に再就職。60歳までスーパーやビルの警備をした後、年金生活になりました。
晩年の20年ほどは、私の見た感じでは自分で自分の人生が総括できていないように思えました。
糖尿病で酒が飲めなくなった上に、一昨年に心房細動で死にかけてからはタバコも取り上げられてしまい可愛そうでしたね。


故郷にも、昔の勤務先にも、もう連絡を取り合う人もいなくなっていたので密葬にしましたが、巡り巡って知っている方がご覧になるかもと思い、お知らせをかねて写真を貼ってみました。