いじめと教育、と報道のこと

仕事でちょっと遅くなって、東京駅を歩いていたら、売店の新聞に「早実も履修漏れ。ハンカチ王子もピンチ」と大きな見出しが出ていた。
ハンカチ王子」って語感が「パンスト太郎」と同じようなもので、茶化すにはいいけど、憧れの対象にする仇名じゃないよね。皆、わかっててわざと使っているのだろうけど。
それに、この見出しのセンスもひどいけど、このところのマスコミの反応の短絡さ加減は目に余る気がする。マスコミって昔からこんなレベルだったっけ?


高校の履修漏れを糾弾して校長を引っ張り出すということは、文部科学省の学習指導要領を無条件で正しいと言っているってことでしょ?実際には守れない規則が決まっていることや、指導要領に沿った受験が行われていないことはそのままにしてさ。そんなに楽しそうにはやし立てることかね?マスコミもいじめやってるよ。


いじめといえば、「いじめによる自殺」報道も問題だ。


学校の先生が全知全能だなんて誰も思ってないし、隠蔽したくてとぼけているのもいるだろうけど、こういう難しい問題の指導が力量的に無理な先生もいっぱいいるわけでしょう?
カメラの前で先生に頭下げさせたって、いじめた生徒は集まれば笑ってるよ。「あいつ、脂汗かいて謝ってやんの」って。
次はいじめた生徒をつるし上げるか。こないだの岐阜の自殺は遺書に個人名が入ってたらしいから、週刊新潮がお得意の少年実名報道でもするかい?それもまた、いじめだね。


いじめは良くない、やられるほうはたまらない。しかも喧嘩と違って反撃ができないし。が、もともと子どもの世界では日替わりでお互いが加害者になったり被害者になったりするものだろう。問題なのはなんで被害者と加害者が階級のように固定化するのかってことだ。
私の考えでは、目に見える底の浅い平等を追求するうちに(例えば運動会のかけっこで順位を着つけなかったら、「教室での勉強が苦手で足が速い子」は、どこで自分の能力を評価してもらえるんだろうか?勉強が苦手なことによる評価は、日々の授業や進路指導などの場面で何かにつけて彼に突きつけられているというのに!)勉強の(特に受験科目の)成績の優劣だけが厳然と唯一絶対の評価基準になっている。足が速い、相撲が強い、料理ができる、花の名前をたくさん知っている、なんていう評価軸はないわけだ。
その基準で真ん中あたりの位置にいる大部分の子どもたちは、自分が何者かもわからないまま人と同じであろうとし、その反作用でちょっと周りと違うところを持った子どもを見つけると、「こいつは変だ」といっせいにいじめるのだ。しかもその「違い」なんて、外見などに限らず、何かの場面でちょっとみんなと違う意見を言った、とかめちゃくちゃ細かいことでね。

僕も人生の一時期、登校拒否児童だった。確かに当時の学校や周囲に対して、今だって恨みごとはいくらでも言えるんだが、それ以上にそこにたどり着くまでの自分の育てられ方を振り返ると、原因の半分以上は外でもない自分の育ち方にある、というのが正直なところだ。要は僕が温室育ちだったということで、それが入学や転校など、カレンダーを1枚めくっただけのことがきっかけで、突然「今日からは外で育ちなさいね」と言われても環境に適応なんかできないか、または過剰に適応した挙句、消耗しきってある日突然ポッキリ折れる。僕は後者だった。こういう子どもは学校に来るだけで朝から中年みたいに疲れた顔をしているので、教育者はぜひ気づいてあげてほしい。


僕が思うに、こんな子がポッキリ折れることを防ぐには、一度温室育ちにしてしまったら、子どもが自らの意思で温室から出たがる時(色気づく、とか将来の具体的な目標が定まる)時まで、保護者が「温室」を維持してあげる事だ(僕の親はそこまでの甲斐性がなかったわけだ。当たり前だが)。
一方、温室育ちにしない一番よい方法は、家の手伝いなどを通して「自分のことは自分でやる」基本的生活習慣を確立させること(43歳からではかなり厳しいよ!)。タイムリミットは小学3年生だと思われる。贅沢を言えば、男の子だったら12歳までに「肥後守」1本で竹とんぼが作れたり、キャンプで薪に火が点けられるぐらいの芸を仕込んでやるべきだろう。もちろんそれらの技術自体は大人になってからマニュアルを読んで取得することもできるが、親や年上の仲間から学ぶことが尊いのだ。


こんな風に育てておけば、たとえ理不尽ないじめにあっても自殺するほど追い込まれることはないと考えるんだが。